
わたしたちは愉快な悪夢を見ている

わたしたちは愉快な悪夢を見ている
ナイロン100℃ 47th SESSION イモンドの勝負
を観劇してきた。
もうこのお芝居について絶対になにかを書くのだ、と観る前から意気込み終演後、ようやくパソコンを開いたはいいもののいざ言葉を打ち出そうとしても一向に指が動かない。
下北沢 本多劇場で行われた東京千秋楽を観劇しもうしばらく経つのに、この冒頭の文章を書きつけたのみで筆が進まないまま日にちばかりが過ぎてしまった。
わたしはこれからこのお芝居についてなにかを書くけれど、観ていないひとびとになにを伝えられるんだろうか。
なにか伝わればいいなあ。
動け!指!!
というわけでイモンドの勝負は、劇団にとって約2年ぶりの新作公演だ。
制作当初の触れ込みとしては、「主人公が何らかの戦いをし、勝って勝って勝ちまくる」というものだったんだけれど、実際に出来上がったものはそれとは少し違い、しかし確かに何らかと戦うような、あるいはちっともそうでもないような物語だった。
▼以下あらすじ
主人公のスズキタモツ(38)は、ギャンブル漬けの愛人にけしかけられた母親に保険金目当てで殺されかける。目隠しをされ連れられた真夜中の小さな公園で、間一髪毒殺を回避するタモツだったが、実は彼の姉も同じように保険金目的で殺害されていた。
彼らの住む町では、近々国際的な大会が開かれることになっている。近々開かれる大会のための前夜祭「近々祭」に沸く町だが、タモツが殺されかけたその夜、奇妙な円盤が飛来し大会の出場者たちを軒並み攫って行ってしまうのだった。
その後、どういうわけか孤児院(中年なのに)に入所したタモツは、ひょんなことから国際的な大会の出場選手に選ばれてしまう。町ゆくひとびとははじめこそ大会出場者の彼をもてはやすが、近々、近々というばかりで一向に開催されない大会はやがて大衆の興味を失い、またタモツ自身もだんだんと忘れられていくのだった。
一方、探偵はとある男をとくに理由もなく尾行していた。その男は政府の高官で、なにかきな臭いという直感のみで尾行をしてみてはいるものの、どういうわけか逆に男のほうから探偵に依頼をされてしまう。探偵はその奇妙な依頼を遂行するため、国際的な大会が行われるという町を暗躍することになる。
一見関係のないタモツと探偵の出来事だが、しかしこのふたつの事件は大きく関わっている。のかもしれないのだった。
やっぱりひとに紹介するんならあらすじは書かなきゃならないだろう、と思ってそれらしいことをひねり出してはみたものの、これほどまでに何の役にも立たないあらすじをいまだかつて見たことがあるだろうか。
いやない。
とにかく無茶苦茶で、紆余曲折がありすぎ、筆舌に尽くしがたい。
けれど、わたしはこのお芝居について、重要なのは物語自体よりもその構造なんじゃないかなあ、とか考えるんである。
あらすじを文字にすると主人公がいきなり肉親に殺されかけておりなかなかにヘビーな話題だが、『イモンドの勝負』はコメディの要素を含んでいる。
3時間強ある上演時間のほとんどを、おおかたの客が体を折るように笑いながら過ごすくらいに。
実の子を殺そうとする母親、病気、あるいは障害を持った男の発作、女性に振られてビルから身を投げる男、あっけらかんと他人に毒を盛る女、弟のために死にに行く姉、夫の帰りを待たずして首を吊った妻、父に育ててもらえなかった娘、自殺を促す看護師、なんか自殺してしまうひと。
それらを目の当たりにしながら、当然のように笑う観客。
登場人物はみな一様にどこかがねじれ、言うこともやることもでたらめだ。
そういう滑稽さがおかしみを生み笑いを誘うけれど、到底笑っていい対象ではない。
そのくせさんざん不謹慎をやらかした滑稽なキャラクターたちは時折ふと、意味深に落ちた照明の下で「それらしいセリフ」を呟く。
しかしそれすらも、自分たちが繰り広げたくだらなさがダラッと尾を引いてうやむやになってしまう。
恐ろしい話だとは思わないだろうか。
国際的な大会とか、突如現れた未知の存在とか、何ともわからないが国が絡んでいるらしい事件とか、近年のわたしたちに身に覚えのある事柄が物語のなかで一堂に会している。
莫大な時間とお金が費やされ、ひとびとが方々で議論し、誰かを傷つけたり誰かに傷つけられたり、時には人死にまで出たようなあれこれを、フィクションという絶対的な後ろ盾と先の見えない奇天烈な物語、それから過剰にデフォルメされたキャラクターたちの滑稽さから勝手に、「わらっていいんだよ」という免罪符をもらった気になって笑う。
いや、笑っちゃいけないわけでは全然ない。
あれで笑うなというほうが無理だし、圧倒的に笑わせにきている。
むしろゲラゲラ笑うところまでが作り手の策略だろうとさえ思う。
しかし、その笑いの先にあるものを考えると、まごうことなき地獄だな、というわけで。
このお芝居は、作者の持つ怒りや風刺や警鐘を笑いでくるみ上げた非常にテクニカルな作品だなあ、と感じる。すごい偉そうでアレなんだけれど。
これは社会風刺ですよ、ボクはこんなことに対して怒ってますよ、このままじゃまずいんじゃないですか?というあからさまな作者の意図を散りばめつつ、その全てを死ぬほどくだらない笑いでうやむやにする。
極めつけは最後、大倉孝二扮する主人公のスズキタモツが、突然客席をきょろきょろと見渡し、観客に向かって「なんすか」と吐き捨てるシーンだ。
ここで完全に舞台上の世界と観客の世界、つまり現実が地続きになる。
これまでフィクションのなかのできごとを笑っていたつもりが急に、いやあれって実はフィクションでもないのよ、と突きつけられるわけだ。
舞台の上で繰り広げられていた異世界(異モンド)のできごとはみんな、現実世界の話だよ、と種明かしされる(ように感じる)。
目の前で繰り広げられたでたらめが現実であることを示唆しつつも、「どうする?」という問いかけではなく、「まあ、そういうわけだから」といったようにぶん投げたまま終わることにもゾクゾクした。
「どうする?」という問いかけがなく話が終わるのは、日々さまざまな事象の上っ面に乗った事実(らしいもの)のみを伝えられてきた我々にオーバーラップする。
事実のみが伝えられその先がないというのは、こんなふうにあれこれ考えるにしろ、ふーん、で終わるにしろそれはひとそれぞれの選択であり、明確な真意は出さないし考えることに対しても考えないことに対しても、擁護も批判もしませんよ、という多様性の皮をかぶった「無」だ。
作品についてどうとらえるかを観客にゆだねる演劇の(あるいは映画や音楽などについてもそうだが)性質を、こういった作り手の怒り、風刺、警鐘に上手くつかっている。
あなたたちいいように振り回されているけどそれでもいいの?という問いかけであるふうでいて、実はなにかを提示する側への純然たる怒り、それに対する風刺と警鐘を強く感じる。
『イモンドの勝負』はその「無」を、物語の内容のみならず作品の構造全てで揶揄しているようだった。
本当に勝負を挑まれているのは、異モンドのスズキタモツではなく、現実世界の自分自身にほかならないのかもしれない。
とかなんとか。
不謹慎な笑いって基本的に面白いけれど、「いや~それはまずいでしょ(笑)」ってあくまで俯瞰で見ているから笑えるんであって、いきなり地面がつながっちゃうとそれはもう鏡に映る自分の顔に向かって笑っているのと同じで、すごく怖いことだ。
ひとって人間がもつ、あるいは生み出す不条理さとか、ゆえに生まれる滑稽さに笑うことができて、この性質そのものがもう「人間って生き物のおかしみ」なのだな、と思う。
KERAさんはそういったひとの愚かさみたいなものをずーっとお芝居のなかで暴き続けているようにわたしは感じていて、人間の本質に迫る、ってこういうことなのかしら、という気がした。
話のスケールがビッグになりすぎてきたな。
ところでこの『イモンドの勝負』は、記念すべきわたしのナイロン100℃観劇デビュー作となった。
ドハマりしたその年にすぐさま、しかも新しい作品を観る機会を得たわたしはマジでラッキーガールだと思う。
幾度となく目の前を通り過ぎた下北沢 本多劇場に、ついに足を踏み入れることができた。
しかも推しが主演。
(制作発表を聞いたときは興奮しすぎて2回ぐらいえづいた)
長い手足をグネグネさせて舞台上を行き来する姿にどれほどうっとりしたことか。
最高に奇天烈な役なのに。
わたしの推しはどこまでもお芝居モンスターで、いつもくらってしまう。
いずれ詳しく紹介したいし、そのうち
「わたしの推し作品ベストなんとか」
みたいなものを書くことができたらいいなあと思う。(読んでね)
この記事が上がるころには大千秋楽も終わり、『イモンドの勝負』は幕を下ろしている。
残念ながら再演がない限りこのお芝居を生で見ることはもうできないんだけれど、もし仮に、万が一、観たいよってひとがいたらどこかしらからわたしに連絡してほしい。
DVDを貸すので。貸すので。